パズルの破片

この時点で、私達は、集めた証拠を再検証するために、一時停止しました。それは私達を、驚きですが、間違う事の出来ない方向へ導いていました。ですが何 故、この証拠が以前に、学者達に集められた事が一度も無かったのだろう?と私達は不思議に思いました。それは確かに、何世紀もの間、簡単に利用可能でし た。何故、私達が知る限り、それを今まで総合して、もし例え推理的であったとしても、全く明らかな様に見える結論を、一人も引き出さ無かったのでしょう? その様な結論は、数世紀前までは厳密にタブーで - そしてもし公表されれば、厳しく厳罰されたのは確かです。ですが、過去二百年の間、その様な危険性は ありませんでした。何故、すると、そのパズルの破片は、理解可能な全体性へと集められなかったのでしょう?

これらの問いへの答えは、私達 自身の時代と、それを特徴化する思考のモード、または習慣にあると、私達は気付きました。18世紀の啓蒙運動と呼ばれるもの以来、西洋文化と意識の方向性 は、総合よりもむしろ、分析にむかって来ました。私達の時代の結果として、それは益々増え続け特殊化するものです。この傾向に沿って現代の学術は、特殊化 /専門化に過度な強調を置き - それは、現代の大学が実証する様に、はっきりと異なった「学術/学部」に知識を分散させる事を示唆し、必然とします。そ の結果として、私達の調査によってカバーされた様々な分野は、伝統的に、とても別々の分野へとコンパートメント化されていました。それぞれ のコンパートメントにおいて、関連する資料は、その分野におけるスペシャリスト、または「専門家」によって検証され評価されました。ですがもし一人でもい たとしても、それらの専門家達の中に、彼等の特殊な分野と、それと頻繁に重なり合うかも知れないその他の分野との間の関連性を確立しようと試みた者はあま りいませんでした。実際に、その様な専門家は一般的に、彼等自身のもの以外の分野を、相当な疑いと共に見る傾向があり、最悪の場合、まがいものとして見 て、最善でも無関係として見ます。そしていいとこ取り、または「間学術的」な研究は、いろいろ言われる中、推理的過ぎると、積極的に止めさせられます。
神聖な血と聖杯、ベイジェント&リー&リンコーン、1982年、309-310ページ

仮現説

「仮現説では、イエスの完全な人間化を否定するので、十字架の上で苦しんだり死んだりすること(受難)はなく、肉体を棄てて神的存在に戻るだけであると考える。したがって「肉体の復活」はなく、『福音書』などに見られる復活のイエスは、霊的に現われて啓示を伝えたものであるとする。また、当然の帰結として、「贖罪」信仰は成り立たない。

贖罪

「キリスト教以前のユダヤ教義(タルムード)からの影響を受けた捉え方である。」