コープス・ヘルメティカム(ヘルメス全集)

A.コープス・ヘルメティカム(ヘルメス全集)の起源
1.コープス・ヘルメティカムの「著者」

ヘルメティカ、またはそれらがまた知られている様に、コープス・ヘルメティカムは、古代エジプトの英知の神、トース(トート)、または、ギリシャ人達に知られていた様に、ヘルメス・トリスメギスタス、「三度偉大なヘルメス」の記述とされる、ラテン語とギリシャ語で書かれた文献の集合体です。この一つの事実自体にも、私達がこの章で発見する様に、凄い話があります。

そ の話が、実際に、一種の混乱と共に始まるのは、アレクサンダー大王の軍隊がエジプトに侵略し、最終的にその国を占領した時に、占領者達はエジプトのトース が彼等自身のヘルメスと全く同じであると直ぐに理解し、そして故に、高度に異なった起源の2つの神の融合が始まり、それは時代を通したその様な解釈的混乱 の原因に成りました。この謎めいた文献の集合体の著者の正体の混乱もまた、ルネッサンス期におけるその最初の再登場からの、西洋の哲学的歴史にも反映され ています。例えばそれは、エジプトに与えられた「啓示の書の原書」として見られ、特に三位一体の教義に現れる主張において、キリスト教の多くの要素において平行すると考えられます。同様に、それは中世のカトリック教会のアリストテレス的神学の窮屈さに対する哲学的戦争がその下で行われた横断幕としても見られます。ブルーノは勿論、コペルニクス的理論(地動説)の支持者としてそれ(ヘルメティカ)を主張し、そして実に、コペルニクス自身も、彼の地動説を概要した彼自身の著書の冒頭にヘルメティカを 主張しました。それは文明開化を昇進するためと、反対に論議するための両方に主張されました。そして勿論、それはまた、錬金術者(化学者)達が賢者の石を 錬成させようとする彼等の探求において呼び起されたものと一つで同じな、スピリット(霊)の深遠な教義のために主張されました。

エジプトを侵略したギリシャ人達がエジプトのトースと彼等のヘルメスと同一視したのには良い理由があったのは、トースが典型的な「英知の神」であったため、またはもし人が好むなら、易学の高度な科学を与えたものだったからで、つまり、占星学と天文学、マジックと医療科学と言う事です。同様に、ギリシャのヘルメスは英知の神で、この世界と次の世界の間、神々と人々の境界線を越えたもので・・・

<中略>

私 達の目的のために、ギリシャのヘルメスはまた、貿易、金融、そして商業のパトロンで、そして故に商人達の間で崇拝されたと言う事も重要です。エジプトのア レクサンドリア征服後の環境において、その後、その2つの神 - トースとヘルメスは - 一つに融合され、アレクサンダーのマケドニア人とギリシャ人達 は、古代の世界を渡り(遠征し)、彼等が征服した各文化の万神性における様々な神々は、彼等の文化的な外見の形専門語において異なるが、同じものと直ぐに結論しました。これは勿論、「ヘルメス・トリスメギスタス」、「三度偉大なヘルメス」の形へと融合された2つの神の機能の合成に繋がりました。彼は人々の中に生きる神で、哲学と神学を教え - 伝統によると - 最終的にデモクリタスプラトン、そしてピタゴラスと言った哲学者達を鼓舞しました。言葉を変えると、そのヘルメス的伝統の、哲学の起源と科学の土台は、ギリシャでは無くエジプトであると主張しました。

ヘルメティカの「著者」について、とても早くから混乱に繋がったのは、正にこの合成のためで、紀元前3世紀まで早期に、エジプトの神官、マネソは、実際には2人のヘルメスが存在し、太古の一人はトース自身で、大洪水以前に存在し、大洪水以前の知識を保存しようと試み、次のヘルメスはその洪水の後の存在で、最初のヘルメスの働きをギリシャ語に翻訳したと明言しました。これがその問題に焦点を当てるのは、古代の習慣において、「著作権」は重要視されず特定の伝統とその発案者への帰属の概念の繋がりを特定する方が大切だったためです。故に、無名の著者達がヘルメス的教義を体現する文献を著作でき、そしてこれのために、その文献の背後の鼓舞に敬意を払う行動として、その様な文献の「著作権」を「ヘルメス」に与えました。故に文献の集合体は増え、そして「ヘルメス・トリスメギスタス」に寄与させられました。これを頭に入れ、私達はヘルメティカとして知られる文献の集合体の実際の中身を此処で、端的に検証する必要があります。

上述された様に、ヘルメス主義の主張は、大洪水以前の知識まで戻り、つまり、ヘルメス的文献に含まれるのは太古の知識で、元祖的な神学、またはプリスカ・セオロギア(宇宙神学)で、これはルネッサンス後期までヘルメティカの広い広がりと影響へ、重要な役割を果たしました。例えば、ヘロドトスは、ピタゴラスがエジプトへと旅し、ギリシャに戻った後に、ギリシャ人達に哲学とミステリー(謎/神秘主義) を教えたと記録しました。紀元9世紀に成ると、ムスリム(イスラム教徒)の学者アルブザル(787-886年)は、エジプト人がトースと呼ぶ最初のヘルメ スは、アダムの孫で、ヘブライ人達はこれをエノクと考え、そしてムスリム達はコラーンの伝統にのっとり、これを太古の預言者、イドリスとすると記述しまし た。彼は、アルブザルによると、エジプトにおいて街々とピラミッドを構築し、予期される洪水を警告し、アクミンの寺院の壁に彼の知識の全てを記述する事前 の警戒をしました。メネソ同様に、アルブザルは、第二のヘルメスはその洪水の後に生きたと主張し、アルブザルによると、ピタゴラスに教えたのは彼だったと します。

2.コープス・ヘルメティカムの文献

上記の論議から私達は、例外なく、ヘルメス・トリスメギスタスのヘルメティカの記述は、全て作者不明で、それらの主張された著者は、それらを書かなかったと結論出来るでしょう。ですがこれがまた私達に可能にさせるのは、コープス・ヘルメティカム体現する便利な定義で、その定義は更に加えて、その文献が体現する概念の推定された出どころの起源に、「著作権」を寄与する太古の観念に従います。故にヘルメティカに よって私達が意味するのは単純に、「ヘルメス・トリスメギスタスをそれらの著者であると厳格に言及する全ての文献」または「彼に暗黙的に寄与された」もの です。偉大な新プラトン派の哲学者、イアンブリカス(推定245-345年)でさえ、ヘルメス的な文献は実際にヘルメス・トリスメギスタスによって記述さ れたものでは無く、むしろそれらのアイデアの起源をヘルメスまで遡った、「ギリシャ語を話す哲学者達によってエジプト語から翻訳されたもの」であると認めています。殆どの研究者達がまた気付いている様に、コープス・ヘルメティカムは大まかに、2つのはっきりと異なる文献に分類され、一方は哲学と宇宙学の題材を扱い、そしてもう一方は、マジック、占星学、易学、そして、勿論、錬金的な賢者の石に関する「実技的」題材です。私達はこの章において、哲学的文献に殆ど特定的に集中しましょう。

この定義を使用する時、コープス・ヘルメティカの哲学的な構成要素は、大体17の文章の集合として理解する事ができ、それが集合体として初めて流通されたのは14世紀です。

<中略>

3.メディチ家、フェラーラ・フローレンス、そしてフィチーノ

ヘルメティカの 文章の幾つかは、確かに早期の教会の神父達と - それれらを好意的に評価した - アレクサンドリアのクレメント(推定150-215年)や - 好意 的に評価しなかったヒッポのオーガスティン(354-430年)と言った著者達に知られてはいましたが、それらが本当に重要性へと爆発的に成ったのは、西 洋ヨーロッパが、その文章の幾つかの元々のギリシャ語の文献を手に入れた時で、これにももう一つの興味深い話しがあります。

その話は、1054年に分離したギリシャ語圏とラテン語圏の教会を再統合する、1438年と1445年の間に行われたフェラーラ・フローレンスの委員会の再統合と言う、大きな出来事と共に始まります。それに含まれるのはフィチーノと呼ばれる少々不透明なイタリアの学者と、彼が雇われていた、とても有名な銀行業一族であるメディチ家です。フロリアン・エベリングは、この人物関係とその重要性について以下の様にコメントしました:

「広く信じられた伝説によると、ヘルメス主義は、太古の世界と共に暗黒時代において消滅し、ルネッサンスにおいて再発見されるまで、キリスト教の独断主義の中核の下に隠されたままでした。1439年に、コシモ・デ・メディチが大いなる委員会をフェラーラからフローレンスに移動した時、その蓋は開かれました。ベッサリオンとプレソンを含む、出席していたギリシャ人の学者達は、古代ギリシャの知識を持つフローレンスのインテリ達、特にコシモに強い印象を受け、フローレンスに古代のスピリット、特にプラトン主義の家を創造しようと決定しました。数年後、メディチ家は、プラトンの記述をギリシャ語からラテン語に翻訳するために、マーシリオ・フィチーノを選択しました。その後、1460年かその頃に、コシモの部下の一人がコープス・ヘルメティカの文章をフローレンスに送りました。ですからフィチーノがまだプラトンを翻訳している最中に、コシモは突然、ヘルメス・トリスメスメギスタスの文章を翻訳するよう彼に依頼しました。フィチーノは、コシモの死の1年前である1463年に、最初の翻訳を完結させ、そしてそれと共にヘルメス主義のルネッサンスは始まり、それは早期の近代時代の知性的な歴史を、17世紀へと形作りました。」

私達が此処に有するものに注意して下さい:

1)著名なフローレンスの銀行業一族 - メディチ家が - フェラーラ・フローレンスの委員会の再統合のスポンサーでした;

2)著名なビザンチンの人文主義者、ベッサリオンとプレソンが、出席者のギリシャの団体の中にいました:

3)委員会の後、メディチ家は何らかの方法で、コープス・ヘルメティカの文章を入手し;そして最後に、

4)コシモ・デ・メディチが、プラトンの翻訳をフィチーノに直ぐに止めさせヘルメティカに集中させました。

何故、メディチ家の様な銀行業一族がプラトン主義などに興味を持ち、そして更に重要な事に、コープス・ヘルメティカに関心を示したのでしょう?そしてそれらの文章は実際にどうやって彼等の手に届いたのでしょう?

此処で再び、私達はこの出来事の間に行われた隠されたアジェンダ(目的)を 見ている可能性があり、ビザンチンの人文主義者、ベッサリオンとプレソンがヘルメス的文献の何らかの知識を持っていたと推測するのは妥当で、そしてメディ チ家がフローレンスにおけるある種のプラトン学校の復活をスポンサーする事と共に、ヘルメス的文献の入手のために、これ等の人文主義者達と彼等が、プライ ベートで交渉するのは自然です。私達が第八章で発見する様に、西洋とビザンチン帝国との関係は、キリスト教や政治的な目的以上のものだった事を証明する証 拠がその他にもあり、そして歴史に刻まれた有名な出来事の幾つかは、隠された、または失われた知識を得るためのカバー・ストーリーであった事を示す更なる証拠があります。何故、著名な銀行業の一族が、その様な文章に興味を持たなければならなかったのかの問いは、私達はこの章の後半に検証しましょう。

何はともあれ、メディチ家のためのフィチーノの翻訳には、ヘルメティカに加えて、新プラトン主義者達、プロティヌス、ポーフォリー、そしてイアンブリカスの重要な翻訳を含み、そして故に、新たな哲学的な方向性は、教会のアリストテレス主義に挑戦しただけでなく、私達が第一章で見た様に近代科学の台頭のための哲学的土台を与えたので、ルネッサンスの発進に重要な役割を果たしました。

<中略>

簡潔に言うとルネッサンスの広く広がった傾向は、ヘルメス的文献の言葉通りに取り、そして故に彼等の教義の起源を高い太古(大洪水以前)の知識と科学としました。その教義は結果的に素早く広まりました。

例えば、ロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492年)の保護の下に入ったジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494年)は、1489年に、大胆にも900のテーゼの連続を出版し、そのうちの10個はヘルメティカから直接学んだ教義に言及しました。これらの内の6つは、何故、銀行業の活動に重度に関わっていた一族が、ヘルメス主義者であったピコに保護を延長する事を求めたのかの、強いヒントがあります:

1.生命がある処に、魂はあります。魂がある処に、マインドがあります。
2.動くもの全ては有形的で、動かされるものの全ては無形的です。
3.魂は体の中にあり、マインドは魂の中にあり、(神の)言葉はマインドの中にあり、これ等の聖父は神です。
4.神は、周りの全てと、全ての物事を通して存在します。
5.この世界に生命の無いものはありません。
6.この宇宙の中に死、または破壊に苦しむものはありません。推論:生命は何処にでもあり、摂理は何処にでもあり、不死は何処にでもあります。

このリストとその中身を与えられると、メディチ家の様な強力な銀行業の一族が何故、ヘルメス主義を一般的に昇進させる事に関心を持ち、そして特にピコに保護を与えたのかが簡単に解ります。もし人が、ブルーノがした様に、これ等の教義が理論的に暗示する事を、それらの究極的結論まで求めれば、カトリック、またはその点においてはプロテスタントも、そしてそれらの神父達や聖職者達も、必要性が無く成り、そして聖礼的システムは消滅します。それは、言い換えると、ローマの教会(ヴァチカン)の権力に挑戦する密かな方法で、台頭してきている北部イタリアの金融的-政治的階級に十分な「戦略的なスペース」を与えます。

で すが何故、すると、明らかに心に誓ったヘルメス主義者であったブルーノは、北部イタリアのもう一つの巨大な銀行業の力、ヴェニスの怒りを招いたのでしょ う?私達が見る様に、その答えは正に同じ教義の中にあります。ですが私達がこの問いの熟考に向かう前に、私達はまず、そのシステムのためのブルーノの殉教 の後、ヘルメス主義が一気に衰退した理由を理解しなければなりません。

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